el_payasoのブログ

音楽とマンガとサッカーとよのなかのブログ。かため。

「美しい顔」について考えてたら7000字書いちゃった問題。

1、「震災」をダシに使ったくせに、リスペクトが一切ない作者はマジで終わってる。
2、「震災」に関わっている僕から見ると、そもそもこの人の思想が許せない。
3、これを持ち上げる周りの奴らは作者以上に終わってる。

僕がいま伝えたいことはざっくりこの3点ですが、書いているうちに7400字になってしまいました。よければお読みください。最終的には、というか全編通して感情論、何なら特大ブーメラン状態ですが、よければお読みください。。。

 

 

本について書くなら、まず読まなくちゃいけないと自分でも分かっているつもりです。が、まったく読む気になれないのです。

何度も何度も「読んでみるべきか」と考えましたが、現時点では無理です。生理的に。で、結構悩んだんですが、「別に読まなくてもいいんじゃね?」という結論に達しました。なので書いてみることにしました。

なぜ「別に読まなくてもいい」のか?それは、僕が書きたい理由は「この作品を認めようとする環境が存在することに怒りを覚えているから」であって、「この作品の出来に怒りを覚えているから」ではないからです。ということにしました。そしたら読まなくてもいいよね。

早い話が、この作品が文芸的に価値があるとかないとかなんてどうでもいい。ほんっとーーーーーにどうでもいい。この作品を書こうとして、書いて、公に発表したお前自身と、この作品を認めて持ち上げようとする周りのお前らに用がある。そんな感じ。

 

一次資料が見当たらん。ごめんなさい。

 

-北条さんリスペクトなさすぎ問題-
abematimes.com

歴史ある文学賞での栄誉をデビュー作で勝ち取った北条さんは、受賞に際して「小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。実際、私は被災地に行ったことは一度もありません」(『週刊読書人』6月1日号掲載」)とコメント。被災地には足を運ばず、テレビに映る悲惨な状況を見ていただけの自分。内側にため込んだ不快なものを小説という形で吐き出したのだという。 

 まず、この人は震災をテレビでしか見ていない。僕は宮城の人間なので、震災のニュースは毎日のように触れているが、他の地域ではどうなのだろう。せいぜい1~2年が上限じゃないの?この人は「現状」を知っているのだろうか。「震災直後の数日」という一瞬だけを切り取ってやしないのか。

震災とは、僕らにとっては今もまだ続く長い日常だ。たくさんの人が、背負いたくもないのに勝手に十字架みたいなものを背負わされ続けている。7年が経って、今も話に触れるたびに涙の止まらない人がどれほどいるのか。語ることすら、触れることすら避けるように生きている人がどれほどいるのか。

この人はその事実を知っているのだろうか。この人はその事実に自らの心で触れようとしたのだろうか。あるいは知っていて、触れることを敢えて避けることで、「自分は他人の思いに直接触れずとも、その痛みを表現することができる」とでもアピールしようとしたのだろうか。

この人は「小説を書くことは罪深い」ことだと考えている。「一人称」で書くことの意味に自覚的だ。この人は、正しい意味で確信犯だ。そして、その罪を償うつもりなどみじんもない。だから、被災地なんて行かない。被災地を題材にすることで、自分が傷つけることになる「被災者」に対して、寄り添うことなど一切しない。自分の価値を下げるだけだからね。

それが分かるから、僕はこの人の話を読んでいると、なかなか滅多に得られない感情、「生理的嫌悪」を覚える。思想が全く相容れない、そして歩み寄ることすらできないであろうと思わせる発言。だって「分かっててやった」って言ってるようなもんじゃん。無理だろそんなん。

 

こうした指摘を受け、北条さんは先週、初めてコメントを発表。参考文献の記載ミスと、その扱い方について謝罪した。「自分が表現したかったことを表現するならば、同時に、他者への想像力と心配りも持たなければなりませんでした。大きな傷の残る被災地に思いを馳せ、参考文献の著者・編者を始めとした関係者の方々のお気持ちへも想像を及ばすことが必要でした」「深くお詫び申し上げます」。また、講談社は北条さんの新人文学賞受賞が決まった4月、彼女が出産予定日を控えていたことから参考文献について適切な対応が出来なかったなどと説明した。

いやまったくその通りだよね。その程度のことも考えられなかったの?あるいは、そういったことをすべて考えに考え悩み抜いたうえで、それでも「出します」じゃなかったの?ん??その程度の浅さだったの???あり得ない。

そのことを指摘する人は、いなかったのか。誰かが傷つく可能性を、進言する人はいなかったというのか。フォローの必要性を感じる人はいなかったのか。それもまたあり得ない。時間がなかった?論外。

不特定多数を傷つけることに、無自覚。だったら、ことさら深刻だよね。その程度の思考も出来ないような集団が「組織」かよ。

 

北条さんは「フィクションという形で震災をテーマにした小説を世に出したということはそれ自体、罪深いことだと自覚しております」、そして、この作品の、執筆の動機について「私には震災が起こってからというもの常に違和感があり、またその違和感が何年たってもぬぐえなかった」「理解したいと思いました。主人公の目から、あの震災を見つめ直してみたいと思いました。それは小説でなければやれないことでした」と説明している。

何度も出てくる「罪深さの自覚」。でも発表せずにはいられないということが、小説家の「業」なのだろうか?

「違和感」。僕はあなたがこれを公に出したことに違和感全開だよ。

 

思うに、自己の欲望を表出させたとき、往々にして誰かは傷つく。そんなもんだ。それは人間の「さが」だ。僕らは生きるために他の命を奪っている。それは解決のできない命題だ。この問題は、これと同じだ。

よって、人を自覚的に傷つけるとき、他の命を奪うとき、僕らはせめてものリスペクトをする。傷つける相手に対して、いたわりの心、感謝の心を示す。だから「いただきます」という言葉があり、「ノーサイド」という言葉がある。その気持ちをもつことで、その先が安らかになることを僕らは経験則で知っている。

この人は、そういうことを一切しなかった。そこに最大の問題があるんだ。リスペクトの一切見られない自己の欲望の表出など、単なるワガママでしかないのだ。だいたいの嫌われ者はこの特徴が標準装備だよね。

 

よしもと新喜劇小籔千豊は日比准教授の話を受け「M-1で1年目の子が優勝した、実力があって間もテンポもすごい、めちゃめちゃ面白いと思ったら、4分の間に何箇所かパクりがあった。パクらんでもウケたのにと思った。でも、そのネタを抜いたら話が変わってくるし、流れがあるからその部分を抜くことはできない。腕前はすごいが、こういうことになって悲しい、ということだと思う」とお笑いの審査員に喩えた。

大事なことを忘れてるよ。ネタの内容がなんだったのか、だろ。たとえば阪神大震災をネタにした漫才だったら。ウケさえすればどんなに人を傷つけようが認められるのだろうか。ジョークがきついよ。

 

宮城県石巻市での記録をまとめた『ふたたび、ここから』の著者・池上正樹さんも、"モチーフを盗られた"と感じている。「『美しい顔』の根幹の部分になっている、情報格差やメディアへの怒りは、やはり震災直後の被災地で、被災者たちから託されてきた言葉だったり、情報だったりするわけで。たくさんの命が亡くなっているし、まだ終わっていない人たちがたくさんいる中で、小説とはいえ、取材しないでああいう形で作品にしたのは理解しがたい」。

理解しがたいよね。わかる。

 

70人以上の被災者の手記をまとめた『3.11 慟哭の記録』も、北条さんに無断で"参考文献"として作品を使われた。編者である金菱清・東北学院大学教授は、今回の問題について「表現の類似性ではなく、文学の本質性が問われている」と話す。

「僕の本自体は500ページを超える大著ですから、それを探すことは至難の技なんですけど、すぐに分かったことは、新聞、テレビで検証されているような一字一句にわたるような微細な事ではなくて、言葉が紡ぎだした土台となるような震災体験、そのものをモチーフに掠め取ったという印象を持ちました」。

 金菱教授は、フィクションである小説の役割を認めた上で、今回の作品が北条さん自身の葛藤を描いただけで被災者の声を代弁したものではないと批判している。さらに、講談社が今月3日、参考文献の未記載について謝罪した一方、類似表現は作品の根底に関わるものではないなどと主張したことに対しても「文学性の意味において、被災者の記録は些細なことなんだ、みたいな講談社側の見解というものが示されたわけで、そこはやっぱり違うんじゃないか」と違和感を口にした。

 

石戸氏は「被災地に行ったことがないから書いちゃいけないんだとか、当事者の話を聞かないと書いちゃいけないということを言う人もいるが、そうは思わないし、当事者でなくても書くべきだ。また、被災者が書いちゃいけないと言っていても、それでも書かなきゃいけないこともある。私も被災地を取材して、"書いていいのだろうか"と葛藤を抱えてしまった経験もある。だから記事を書くにしても一つ一つ許諾を得たし、それを本にするに当たっても、どこをどう加筆します、そしてどういう本にしますということをご説明した。それは当然やるべきことだった思う。北条さんは、被災地に行っていないということを強調しすぎたがために、じゃあディティールはどこから取ったんだ、という話になった。結局は他から取っていたのに、そのことを一言も言わなかったのは落ち度だと思う」と指摘する。

 「一番のポイントは、小説の中で北条さんは震災についてどこまで描きたかったのかよくわからない。金菱さんには北条さんから、お詫びの手紙が届いたというが、その中で北条さんは"自己の内面をもう一度見たかった"と言っている。つまり、自分の内面を描くために、被災者の人達の言葉を使ったということになる。それは被災された方々の気持ちを"ネタ"として使いましたと言っているようなものだし、その批判は免れないと思う。書く以上は、なおそれでも評価されるような作品を書くべきだった」。

ため息しか出ない。金菱さんという人がどれだけの人なのか、僕は本当にうっすーい関りだけど、5%くらいは知っている。少なくとも北条さんよりかはよっぽど知っているよ。

 

-そもそも思想が許せない問題-

さて。僕自身は、震災によって家の中のいろいろなものが壊れ、電気も水道もガスも止まったなかガスコンロで沸かしたお湯でチキンラーメンを食べ、ラジオを聞きながら眠れない夜を過ごし、水がどこかで手に入らないか地元の友人と探し回り、電気が復旧したことでテレビを見て絶望し、福島原発の状況に不安を覚え、ガスがいつまで経っても復旧しないのでなかなか風呂に入れなかった。友人は奇跡的に皆無事だった。家を流された人もいれば、友人を亡くした人もいたが。まあ、言葉は悪いかもしれないけれど、その程度だ。あるいは、震災の3年後に祖母が亡くなったのは、ひょっとしたら地震によるストレスもあったのかな?と、ちょっと思う程度だ。

ところが、仕事の関係で、ここ数年被災地と大きな関わりをもつようになった。時に学び、時に支えあい、時には活動し、今や震災について発信する立場になってしまいそうだ。だが、未だにいつまでも拭えない違和感。「仕事という理由だけで震災に深く接する自分が、発信する立場になっていいのか」という違和感。それは、自分の仕事であるべきではないんじゃないか。その程度の経験でしか伝えられない若造の自分がやっていい仕事ではない。もっとふさわしい人がいるはずなのだ。ずっと悩んでいる。だから、許せない。

と、ここまで書いて気付いたよ。僕は、自身の悩みをこの人に投影しているだけだった。そして、「僕自身がこんなに重く受け止めている(と自分では思っている)はずなのに、一方で震災を『ダシ』に使っている人がいること自体が許せない」んだ。純粋な金儲けだったらかえってスッキリしたのかもしれない。が、この人らは「自身の内省」のために震災をダシに使い、あまつさえそれを公に解き放ち、共感ないしは称賛を得ようとしている。その程度だ。自己承認欲求のために、自らと皮一枚程度のつながりしかないようなものを利用する。

 

-変な大人いっぱい問題-

ところで、なぜそれを認めようとする人たちがいるんだ???という疑問。

別記事から。

hibi.hatenadiary.jp

被災地・被災者を厳密に、限定的に考えれば考えるほど、その範囲は狭くなる。そしてそのことは問題の意識を先鋭にするかもしれないが、逆に副作用として問題のあり方を固定的にし、関係の及ぶ範囲を狭め、はては問題そのものを外部から見えにくくしていってしまう。

心理的な悪影響もある。「当事者」性を強調すればするほど、「非・当事者」を遠ざける効果を生む。被災の苦しみは「当事者」にしかわからない、喪失の悲しみは「当事者」にしかわからない、ということが強調され、「当事者」とその身近な者たちだけが発言の権利を持つような雰囲気が支配的になったらどうなるか。「関係のない者」「距離を感じた者」たちは、身を引き離し、問題の周囲から遠ざかっていくだろう。あるいは遠ざからないまでも、ひたすら聞く側、受け取る側の受動的姿勢を取り始めるだろう。

ここで起こるのは、分断である。本来、手を結ぶべき当事者と非当事者が、「当事者性」の過度の強調により、かえって疎遠になっていく。それはとても残念なことだし、それどころか現実的な不利益や、支援活動の弱体化までも生んでしまうだろう。 

 そもそも論として、「当事者」と「非・当事者」には埋めがたい断絶があるのではないだろうか。この方は、「当事者性を強調」することによって「分断」が起こるとおっしゃっている。が、僕に言わせれば、この方の言うところの「分断」など2011年3月11日の時点で決定的に破滅的に起こっている。自分たちの意思とは全く無関係に。だから、7年経っていまさら「分断」がどうこう言っている時点で、僕はこの方との埋めがたい「ズレ」を感じてしまう。まずもって、この言葉自体が「非・当事者」でなければ発することのできないものであり、僕は強く違和感を覚える。

長々と書いたが、この方の言うことに対して、地元の人ならたぶんこう言う。「それでおめぇは、何を知ってんだ?」って。間違いないと思う。

 

さて疑問。「当事者性」を一番強く意識しているのは、果たして誰なんだろう。無理やり分けているようで、僕らからしたらはっきり言ってそんなのどうでもいい。助けてくれる人がいるなら、僕らはそれだけでありがたい。話を聞いてくれるなら、僕らは喜んで話をする。悩みは聞いてもらったほうが楽になるのだ。そこに「どうせお前なんか分からないだろ理論」を持ち出すのは、せいぜい子どもくらいだ。彼らに対してそんな屁理屈をこねる大人などいない。もしいるとしたら、それは大人の皮をかぶった子供だ。あるいは、聞く気のない大人が現れたら、彼らはそういうだろう。

「分断」という言葉が生まれたとき、そこに「分断」は既に起こっている。それを生んだのは、他の誰でもない「非・当事者」である。

 

 

当事者と、非当事者は、二項対立的にすっぱりと分かれるべきではないし、そうあるものではない。当事者と非当事者は、苦しみや痛みを、分かち持つ(分有する)ことができる。何かのきっかけで接点が設けられたとき、その接点を通じて、共有しうる互いの地盤が開かれることがある。分断は、だから固定的ではありえない。当事者と非当事者の間には、分断ではなく、可変的な「関わり」の濃度の差がグラデーション状に広がっていると考えた時、被災と非・被災に単純に分割する思考がほどけはじめる。 

これは僕はその通りだと思うしそうすべきだと思う。ただ、気を付けなければならないことがある。といっても当たり前のこと。普通の人間関係で考えたらいい。ある日、なんだかよく分かんない人がいきなりやってきて「話を聞かせて」と言ってきたら。普通警戒するに決まっているのだ。

警戒を解いていかなければならない。そこで必要になるのが「リスペクト」だと僕は思っている。相手を尊重し、相手に寄り添う姿勢が必要だ。もちろん時間はかかる。かかって当たり前。中には、話さない人もいるだろう。「痛み」を「自分だけのもの」として受け止めたい人もいるかもしれない。その人の気持ちを尊重して、寄り添うために何ができるだろうか??これは、とても難しい問題だと思う。その事実をどこまで理解できるのか、というところから話は始まる。

さて、もう一回。「当事者性」を一番強く意識しているのは、果たして誰なんだろう。わけの分からない言葉で、一般化して、対立させようとする。人の心を、ひとまとめに処理しようとしている。それはいったい誰なんだろう。

「美しい顔」の読者になることは、震災を「経験」することだ。それはもちろん、フィクションの震災であり、虚構の震災である。だが、震災を「本物の震災」にだけ限定し、それ以外は無価値だとすることは、被災地とそれ以外の分断を強め、当事者と被当事者の溝を固定化し、ひいては我々の社会の共感力を過小に評価することにもつながる。

小説の言葉は虚構かもしれないが、当事者とそれ以外の人々との間の関心と関係を、結び直す可能性を秘めているのだ。

はあ。 誰なんだろうね一体ね。

ちなみに僕は、「美しい顔」なんてタイトルの小説が関心と関係を結びなおすとは思えないけど。そもそも美人という自覚をもって生きる人間っていうのがどれだけいるのっていうところからスタートでしょ。

ぜんぜん違う話になってしまった。まあでもそんな感じだ。彼らは、この作品を認めたいがばっかりに訳わかんない理論武装してる感じがする。いらねーよそんなの。

 

僕はいつも思う。堅苦しいことなんか考えないで、リスペクトの心をもって楽にやったらいいじゃんって。それがないばっかりに、世の中は息苦しくなっていく。しかも大人たちがやってる。最悪だね。

今回の問題に怒りを覚えながら、そう思った次第でありました。以上でーす。